歴史文化

「ああ 炎の岡山市」岡山大空襲(第二次世界大戦)を生き延びて 平和を祈る

私の祖母が終戦後50年目(1995年《平成7年》)に山陽新聞社の『平和祈念文集』に寄稿した手記です。

祖母は生前、僕達に戦争のことを語ることはなかったですが、平和の大切さ・尊さは常々話していました。

飛田保子・岡山大空襲(第二次世界大戦)を語る

祖母は『この世界の片隅に』の「すずさん」と同年代で、おっとりとして、やさしい人でした。

戦中・戦後の艱難辛苦を語るこの手記にも優しさがあふれています。

岡山の歴史・戦時中の生活などを知りたい方はぜひ読んでみてください。

飛田保子 68歳(執筆当時)【2017年7月 逝去(91歳)】岡山市〈旧姓・吉田〉

第二次世界大戦末期の岡山市 銃後の生活

煌煌《こうこう》と丸々光る月――、こんな夜はアメリカ爆撃機B29の空襲がありはしないか?

大東亜戦争末期ともなれば毎日毎夜、いつ私たちの命は亡くなるか、と覚悟はしている。

「警戒警報、警戒警報」。

メガホンの声が町内中響く。

サッと電灯の笠に黒い布のカバーを被せる。

どうなる事かと固ずをのむ思いで息を殺している。

しばらくして解除ともなればホッとしてカバーを外す。

ただただ銃後の私たちは勝つまではと、物資や食糧不足にも不平を言わず頑張った。

岡山大空襲で燃え上がる市街 九死に一生を得る

いよいよ戦況は急速に悪化――。

真夜中「ドッカーン」。

すさまじい大音響に驚き、飛び起き飛び出して驚いた。

昭和20年6月29日未明、岡山大空襲だったのだ。

アメリカ爆撃機B29の焼夷弾《しょういだん》はすでにあちこち投下、さく裂。

物すごい炎がメラメラ立ち上る。

「大変だ!! 逃げよう。」

母、姉、私の3人は無我夢中で城下辺りまで駆けた。

ゴーゴー頭上に覆いかぶさるB29の低空飛行。

「もう駄目だ!! 助かるまい」。

死を覚悟し、旭川の土手に駆け上がった。

防空壕《ぼうくうごう》に入ろうとした途端、「ドッカーン」。

私のすぐ傍らに焼夷弾が投下、さく裂。

バタッ!!

私は地面に四つんばいでへばりついていた。

内臓全部ドドーッとえぐられるような衝撃を受け、失神。

しばらくしてフーッと気が付き、私は生きていたのだった。

九死に一生を得て、ああうれしい、恐ろしかった、ありがたい。

目に涙がにじんできて辺りがボーッとして見えなくなった。

爆撃で燃え上がり、崩れ落ちる岡山城を見て

ふと向こうを見ると旭川のそばの岡山城がメラメラと炎に包まれているではないか。

夜空をも焦がすかと思う炎はますます立ち上り、やがて燃え尽き、

「ドドーッ、ガラガラ、ズドーン」。

大音響とともにあの雄々しい岡山城は炎もろとも崩れ落ちてしまった。

あーあ思わず目を閉じた。

胸が詰まる思いをどうすることも出来なかった。

私の足もとの草も焼夷弾さく裂の破片でメラメラ燃えている。

爆撃機はゴーゴーと飛来。

ドッカーンと次々に焼夷弾投下。

「逃げろ」。

私たち3人は炎の岡山を後に、北へ北へと必死で駆けた。

鶴見橋を渡った畑の中の細い道には多くの人々が直撃弾を受け、すでに亡くなっていた。

助けてあげることも何もしてあげられず、ただただ屍《しかばね》の間を夢中で走り続けた。

ふと振り返ると岡山の空はすでに炎がもうもうと立ち上り、赤々と染まっている。

「ああもう我が家も燃えたことだろう。いやいや何もいらない。命さえあればいい」と自分に言い聞かせていた。

焼け野原となった岡山市 自宅も無くして出征中の父兄に語りかける

夜も明け、朝、バシャバシャと無情にも雨が降る。

傘もなく綿入りの防空頭巾《ずきん》、モンペ上衣もびしょびしょ。

ポタポタ落ちるしずくとともに、目からポタポタと訳もなく涙が落ちる。

飢えとどっと出た疲れ、たどたどしい思い足どりで岡山市街の我が家に向かう。

長い時間歩き続け、やっと岡山市に入ったとたん、見渡す限りどこまでも続く瓦礫《がれき》の山であった。

ああ何もない。

所々まだ白い煙がチョロチョロ上る。

ポツンと岡山駅。

所々にビルの外壁など残って見るも無惨な岡山市街。

我が家は影も形もない。

ヘナヘナと力尽き果て我が家の前にしゃがみ込んでしまった。

両手で顔を覆い、しばらく放心状態で動く気力もない。

あーあ中支蘇州に兵役出征の兄はどうしているだろうか。

また、九州小倉炭坑に徴用令で長い間石炭選別で真っ黒になって働いている年取った父はどうしているだろうか。

「我が家は爆撃で燃えたんよー」。

父も兄も遠くにいるのに私は一人言を言っていた。

夕方になり西の空に陽も傾く頃には烏《からす》が群をなして鳴きながら赤く染まった西の彼方に消えていく。

「いいなあ……」。

烏は帰る寝ぐらがあってうらやましい。

ああ私には帰る家もない。

ただ長い間茫然《ぼうぜん》としていた。

のどが乾く。

焼夷弾でグニャグニャにへし曲がった鉛管の蛇口を夢中でひねったが1滴の水も出ない。

これから先どうして生きよう。

食べ物も住む家もなし、雨でぬれたドロドロに汚れたカバンは肩に重く、防空頭巾もモンペも体にベットリくっつく。

ガラガラと積み上がった瓦礫の山を空《うつろ》な目をしてあてどもなく、ただただ歩き続けた。

第二次世界大戦終戦直後の岡山市の様子と傷痍軍人さん

「えっ!! 焼け跡に我が家が建つん?」

本当に思いがけない言葉に、打ちひしがれた心に、一筋の光が差してきた。

終戦後しばらくして表町商店街の元の所にやっと我が家が建った。

着る物も食べる物もないけれど気分は晴れ晴れうれしい。

誰にも束縛されずにのびのび思いっきり手足をのばして生きていこう。

明日への希望に満ち満ちた毎日。

生きがいのあるうれしさよ。

日本全国は今まで、女、子供、老人がほとんどだったのに、戦地の出征兵士の方も帰還。

急に若い力であふれた。

アメリカ進駐軍もピイピイピューッ、口笛吹きながらジープに乗り、猛スピードで人通りの中を走りゆく。

チューインガムをかじりながら、英語で楽しそうに話す進駐軍の2人連れが通る。

あちこちにつち音高く次々バラックが建つ。

粗末な衣類を着ていても通り行く人々の表情は明るく活気づいてくる。

ふと人通りの間からギターの音がする。

シベリア抑留の軍歌だ。白衣を着た日本傷痍《しょうい》軍人の方である。

足にはぐるぐる包帯が巻かれ、そばには松葉杖を横たえ、地面に座ったまま、カーキ色の軍帽を深々被り、うつむき、一心にギターを弾いている。

恵まれるとうつむいたまま深々と丁寧におじぎをされる。

「そ、そんなに頭を下げられなくてもいいのに」。

思わず私はつぶやいた。

あなたたちは勇敢にも命をも惜しまずに、はるばる遠い戦地に向かわれ、戦闘中に負傷されたのだ。

堂々と胸張って生きて。

いつまでもギターを弾いておいでの傷痍軍人の方を見ていると、目頭がにじんでくる。

多くの戦死者のうち、よくぞ無事で帰還された。

残った人生楽しく生きてと祈るのみ。

空から戦争で亡くなった人々へ語りかけ、平和の尊さを想う

「見てみて……」。

私は戦争で亡くなった人々に語りかけた。

地上1万フィート上空で飛行機の空から見える世界各国の素晴らしいこと。

あなたたちは戦争中困苦に耐え忍び、亡くなられ、何とも言えない気持ちです。

ヨーロッパ、シンガポール、中国、アメリカ、カナダ、スイス・モンブラン、北京・万里長城、ナイヤガラの滝、カナダ・ロッキー山脈と行く度に、あなたたちにこの素晴らしさを一目でも見せてあげることが出来たらと惜しまれます。

世界の人々と笑顔で親しく話し合い友達になれたのに。

どうして戦争などしたのだろう?

平和のうれしさ、ありがたさを噛《か》みしめながら日を送っている私は、あの戦争中亡くなられた方がいつまでも脳裏に焼きついて離れません。

苦しかったでしょう熱かったでしょう。

燃えさかる炎の中で息を引きとられ、あなたたちはかわいそうでしたね。

戦後何年経っても戦争は私の生きている限り脳裏から消えないのです。

『戦後50周年記念 平和祈念文集』山陽新聞社 平成9年3月発行 pp. 158-159.

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